グラフィックデザイナーとフィニッシュワーカー

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2022年に迎える創業100周年プロジェクトの一つとして、100年の事業を振り返ることがあり、会社には今はもう在籍されていない先輩たちに取材したりしていましたので、書ききれなかった関連情報をブログにしています。

DTP以前の制作は、グラフィックデザイナー → 写植オペレーター → フィニッシュワーカーという流れが必要でした。


1980年代以前の印刷用のデザインは、①グラフィックデザイナーが写真を撮ったりリースポジを探したりするための手書きスケッチを紙に描いて、文字は手書きでラフのレタリングをしていました。
事前にクライアントにカラーカンプで見せる必要がある場合は、カンプライター(デザイナー)が全て手書きでデッサン、レタリングして原寸で作成することもありました。

それに指定された書体とサイズで②写植オペレーターが文字を打つところから版下の業務になっていました。
ポスターなどの大きな文字は、写植機にセットできる印画紙のサイズの都合で打てないため、小さめに打った文字を、③フィニッシュワーカー(※)がトレスコープで拡大して「紙焼き」を作成するというのも大事な版下作業でした。版下は写真の上に直接文字を貼ることもありますが、大概は写真のトリミング変更、位置変更などを想定して、硬質の透明フィルムに文字の印画紙をスプレーのりで貼るという作業が通常の工程でした。いわゆるリアルなレイヤーです。
(※フィニッシュワーカーとは、版下担当、版下デザイナーのことで、当時はこんなハイカラな名前で実際には呼ばれていませんが・笑)

グラフィックデザイナーは出来上がった版下全体にトレペをかけて、色鉛筆やサインペンなどで色指定をして行きます。色指定はカラーチャートを見ながらCMYKのパーセンテージ(10%刻み)設定で書き込んでいました。
まだコピー機がない頃はトレペに色指定を書いたものを、直接クライアントに届けて、その場でチェックしてもらうこともあったそうですが、モノクロコピー機が普及すると版下をコピーして、それにデザイナーが色指定を書き込んだりしていた時代がありました。

過去の一向社の制作部にはアートディレクターとグラフィックデザイナーが所属していました。


印刷会社の周辺には、写植オペレーターとフィニッシュワーカーが数人いる版下会社が何軒か存在しており、版下部門は外注が当たり前でした。
当時は高度成長期でもあり、版下会社にはたくさんの仕事がありました。
しかし、1990年代になってDTPシステムが印刷会社、制作会社では当たり前になったことで、一気に版下の分業がなくなってしまいました。
手動の写植から電算写植に変わったDTP化直前の頃は、原稿もワープロで作成されていて、フロッピーディスクで入稿したデータを変換するという時代もありましたが、DTPの普及の速さは電算写植機の時代を短くしてしまったのかもしれません。

以上が一向社の「写植・版下」時代でした。

この記事を書いた人

ターニャPROFILE
グラフィックデザイナーを目指して入った学校ではまだDTPもWEBもない時代。
その後、一向社の制作部に入って数年後に仕事でMacの存在に触れ、会社で初めて使ったツールはMacintosh IIfx(ツーエフエックス)。最初[Ai]のVer.3.0や[Ps]のVer.2.0あたりを必死に学んだ後はなんやかんやで社内では年長者になり、現在もなおツールの進化とアプリの進化にOJT(実務をしながら道具を吸収)中!(笑)…現在の専門はWEBと映像編集など。
趣味は:野球観戦(甲子園)、モータースポーツ観戦(鈴鹿サーキット)、飲みニケーションw
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